ex.)
「この度、司会進行をさせていただきます○○○でございます。」
「今から歌わさせていただきます○○○です。」
「○○○で演奏させていただきました。」
上記のテキストはよく耳にする言葉ではないでしょうか。何気なしに耳を素通りして、何が問題なのかわからないしとても丁寧で良いじゃないか、と言う人もいることと思います。しかしここでよく私が思うのは、「誰」に「させて」「いただく」のかという違和感です。
今回はこの「させていただきます」という言葉から、『責任 : Responsibility 』と『正確なコミュニケーション』を、前回の Column『「自立の弊害」 .2005.07.27 』と関連付けて考えてみたいと思います。
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この「させていただきます」と言う言葉が日常で使われているときに、ちょっと考えて聞いてみれば自明のことなのですが、単純に相手に敬意を払って、謙っているわけではないのです。上記の3つの ex) は実際以下のように翻訳できます。
『わたしはこの仕事を自分から望んでやるわけではありません。誰かの命令を受けて、あるいは許可をもらってやらさせていただくのです。だから自分には責任はありません。』
(「eメールの達人になる」 村上 龍著 P.019)
この翻訳を見ればわかりますが、『わたし』には『この仕事』に関して『責任』はないのです。つまり『責任』を伴う < 他人 > および< 主語 > が『誰か』で、そしてその『責任』の所在がわかりません。例えば上記の「させていただく」という言葉は、一見自分を謙らせていて相手を敬うというニュアンスを含んでいますし、言われたほうは謙られて少し気持ちがいいし、感じが良いというイメージを持つのは確かですがただ、やはり時と場合によって「誰」に「させて」「いただく」のかを疑問に思います。
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別に「敬語」がすべて悪いというわけではないし、美しい敬語もあります。ただ、注意しておきたいのは「敬語」を使用することは『正確なコミュニケーション』をとるための ツールではなく「人間関係を円滑にする」ためのツールにしかすぎないという部分が大きいということです。ここでいう『正確なコミュニケーション』と「人間関係を円滑にする」という 2 つの概念は、広義では一見同じように思われるのですが、実はまったく違うものであるということを認識が必要になります。
「その問題につきましては、できうる限り最大の努力を払いたいと存じます。」
国会などでよく政治家のこのようなコメントを見ることや聞くことがあると思いますが、ここで実際にこのコメントの中の敬語を抜いてみると
「その問題については、できうる限り最大の努力を払いたいと思う」
これはおそらく「人間関係を円滑にする」=「カドをなくす」ということを含めた「洗練化」ではないかと思われます。少なくとも私はこのようにいい加減で偉そうなことを言う人は信用しませんが。
このように「させていただきます」という言葉が広く流通して定着していく社会は、非常に < 洗練 = 円滑化 > された社会フレームなのかもしれませんが、『責任 : Responsibility 』が伴わない言葉が増大していくことになります。これは『洗練』により形骸化されて閉塞化を生み出していき、『主語』がない、という現代社会のフレームに拍車をかけていくとことになります。
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では、「正確なコミュニケーション」とはどのようなことなのでしょうか。今までこの文章で書いてきたように、現代社会は と呼ばれる社会構成になっています。「格差」や「思想」、「価値観」というのは「日本人」なら『みんな考えていることは一緒である』『みんなの目標は一緒である』という概念もしくは近代社会のモデルはもうフィットしなくなりました。要するに「みんな考えていることは一緒でない」ということから始めていくと、まず < わたし > でない全くの < 他者 > に出会います。それは < わたし > の思っていることや考えていることがその < 他者 > に「伝わらない」ということに当然ぶち当たります。
それでは < 伝える > ためにどうするのか。
まず、 < 他者 > が何を言っているのか「正確」に耳を澄まさなくては何も始まりません。それから、 < わたし > と < 他者 > の共通の言葉を定義していかなくてはいけません。そして、最も重要なことは < 私 > の情報が < 相手 > = < 他者 > に『正確』に伝わったかどうかです。つまりそのためには、どう伝えれば相手に理解してもらえるのか考えなくてはならないということです。
小学生の標語みたいですが、わかりやすいテキストを引用します。
私とあなたは違うということ。
私とあなたは違う言葉を話しているということ。
私は、あなたがわからないということ。
私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。
そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、一つの社会のなかで生きていかなければならないということ。
そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見出す方法も、きっとあるというと。(「対話のレッスン」 : 平田 オリザ著 P.220)
これはベーシックかつものすごくシンプルなことで、「そんなことはわかりきっている」という人が多くいると思います。しかしこの < アノミー > という近代社会成熟モデルの中で、「わかりきっている」と自明なものとして片付けている (もちろん私を含めた) 多くの人は知らず知らずに、『自分の見ているものは普遍だ』と錯覚して、いろいろなことを知らず知らずに他人に押し付け、そのことは社会的に見ても多くの弊害をもたらしているようです。端的に言えば、様々なファクターが フラクタルに存在しているにも関わらず、そのことを認識せずに押し付けあうということでしょうか。
これはフェアではありません。
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仕事や人間関係においても現代社会の中では < わたし > と < 他者 > (=あなた) の立場や状況は『入れ替え可能』となっています。例えばこのことは、 < わたし > の仕事と < 他者 > の仕事は、ロールとマニュアルで支配された現代社会において、充分に『入れ替え可能』になりえるという状況のことを指しています。つまりその < わたし > というものを担保している Identity つまり『仕事』が、現代においては『入れ替え可能』なシステムに、私たちは生きざるを得ないということです。
近代社会この国では、人びとは近代社会において非常に < 流動性の低い社会 > に暮らしてきました。 < 流動性の低い社会 > ということはすなわち、『入れ替え不可能』であったということを意味しています。その人にとっての Identity となる『仕事』を含む『存在』は、 < 他者 > により脅かされることはないということです。
しかし実際は、ウチにおいてもソトにおいても中間集団としての『世間』においても < 他者 > と正面から対立する場が存在しませんでしたし、それは必要とされなかったでしょう 。そして同時に、それは自分と他者との(微妙な)差異を正確に測定したうえで、その差異を統合しようとする場が完全に取り払われてしまいます。何故なら、このような社会システムでは生れてから死ぬまで人々は < 他者 > とは出会わないし、こういった狭い閉じた社会では「知り合い同士」がいかに円滑に生活していくかのみを考えればいいだけですし、そこから生れてくる言語は同化を促進する『会話』のためのものが大きく発達し、そこで差異を許容する『対話』が発達してこなかったのは自明なことです。
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ここで『対話』と『会話』について明確な定義付けを明記します。
『会話』 : Conversation
- ... すでに知り合ったもの同士のおしゃべり。
- → お互いの細かい事情や来歴を知ったもの同士のさらなる合意形成に重きを置くこと。
『対話』 : Dialogue
- ... 他人との情報交換や交流
- → 異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションの往復に重点を置くこと。
(「対話のレッスン」 : 平田オリザ著 P.152)
この『対話』についての基本原理も同著より抜粋します。
- 「あくまで一対一の関係である」:実際の場の人数が 2 人でも 10 人でもかまわない。
- 自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。
- 相手との対立を見ないようにする。あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること。
- 相手と見解が同じか違うかと言う二分法は避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
- 自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、常に開かれてあること。
この基本原理を見ると『対話』は『議論』としても成立します。
ただ、この国では「議論」といえば「人の話を聞くこと」は優先されず、「自分の言いたいことを言ってすっきりすること」という単なる < 表出 > の場と勘違いした人が多いし、その「相手を黙らせる」ことにしか興味がない人たちも多いですが、その人たちには興味がないのでここでは割愛します。