ここ数年良く聞かれるようになった「 risk (リスク)」と言う言葉。
この言葉の持つニュアンスはおそらくネガティブな印象を持つかもしれませんが、この機に正確な定義と意味とそれに関して「自己実現」の強要化について、そして「希望格差社会 ―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」山田 昌弘著を核にして話を進めて行きます。
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それは、村上 龍氏の「希望の国のエクソダス」のなかで、
「この国には何でもある。本当にいろんなものがあります。だが、希望だけがない」
という不登校中学生の国会での質疑のなかで放つダイレクトな文章で表現されているように、「以前」のように「すべての国民の努力が報われる」という「均一化された」インセンティブは無くなっています。それに「不安を煽り」「自分とは切り取られた情報」を「傍観者」的に垂れ流す報道に日常接する中ではやはり、「以前」の共同体メカニズムのなかのコンテクストのままであるという「錯覚」しか見ることしか出来ません。
「一億総中流:みんな一緒」という言葉どおりを疑いも無く信じるだけで、「自分は『普通』である」と言う安心をモトに傍観者的に「勝ち組」「負け組」に他人を分けてしまいがちですが、実は自分が既に「経済的」「精神的」な「格差」に現実的に取り込まれてしまっている状況を我々はどのように「生きて」行けば良いのかということを考える一つのファクターとして書かれています。
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ではまず、「 risk 」という言葉の定義を正確に定義します。元々語源はイタリア語の
risicare :勇気を出して試みる
と言う言葉が語源です。現在では「 risk 」と聞くと「危険性」というニュアンスでとられることが多いのですが、正確には「『何かを得るため』についてまわる危険性、『必ずしも出会うわけではない』というニュアンス」という意味でとらえるほうがより正確です。そこには「選び取る:choice」と目的:purpose 」が含まれており、「その『危険性』に出会う『かもしれない』状況に身をさらして何かを達成しようとするとき」に発生します。
付け加えて「uncertainly:将来の予測がたたない状況」のなかで「生起する危険の内容について想像でき、ある程度計算可能」であるということなのです。簡単に言えば、
「リスクは、単に『危険なこと』ではなく、人を惹き付ける何かに潜むものと言うニュアンスが含まれている。地雷原を歩くのはリスクが大きい、と言う言い方は変だ。たとえば地雷原の中に大昔の宝物が埋まっていて、それを掘り出そうとするような場合に、地雷原は初めてリスク要因として成立する。」
村上 龍(著) 「人生における成功者の定義と条件」 P.006より
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現在では誰も彼もが「自己責任: accountability 」を軽々しく他人に押し付ける社会に移行しています。まず、この「自己責任」についての定義ですが
「自分自身のことに対して、自分で決定する。そしてその自分で選択したことの結果に対して自分で責任を取る」
ということです。これは「以前:高度成長化社会」における「相互扶助」、「共栄共存」的な社会の変化に伴い「自分自身で『 risk 』を取ることを強制される社会」,「選択を強要される社会」が生み出されてきているということを示しています。 また上記では個人的に「他人に押し付ける」と書いたのは、おそらく万国共通だと思うのですが「自分で『責任』を取れない(もしくは判らない)ヒトほど、他人の『責任』に敏感である」という判断からです。
つまり「傍観者」になり、「安心」したいという心理が働くのではないでしょうか。また本著では詳しくこの国の「前近代社会」から「現代社会」の人々の「安全」「危険」の認識の違いを書かれています。
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「『 risk 』を取る社会」と言われている、実際に我々が生きる現代社会とはどのようなものなのでしょうか。
「以前」は「生きる目標」はむしろ自明なものでした。第二次大戦後、「豊かになる」ということが first priority(最優先事項) となっており、ここで言う「格差」はあまり目に見えてこず、「みんな一緒なのですから、みんなで助け合いましょう」という価値観の方が強かったのではないでしょうか。また、経済的格差はあまりみられず、上記の「一億層中流」と言う言葉どおりに「自己実現」よりは「豊かになる」の方にプライオリティーが置かれ、ある程度の職種も限定されていました。
その後、先の目標はある程度達成され「マスプロダクション:大量生産、大量消費」の時代と移りある程度の「余裕」が生れてきました。こうしてわれわれは「自由な人生の選択が可能な社会」という社会システムが享受している日常に生きられるようになりました。この「自由な人生の選択が可能な社会」を言い換えると
1. 「選択に伴う新たな危険に出会う可能性がある社会」
2. 「 choice の結果、『人並みに生活すら出来なくなる可能性』が生じる社会」
となります。 これは以前に機能していた『「相互扶助」する「共同体」』(=セーフティーネット) が無くなってしまったことを意味しています。このことを「ネガティブ」にみるか「ポジティブ 」にみるかと言う主体の視野によってずいぶん変わってくるものです。
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「自分自身でリスクを取る」ということを「内部リスク」と本著では読んでいるのですが、これは「『よりよいこと』を目指し、選択する」ことによって「自己実現できる」ということを意味します。すなわち「自己実現 : 自らの意志で選択し、自分で思い描いた状態を実現すること」という選択肢が現れました。
ただ、この選択肢から生じる問題は何故か「自己実現」を一様に強要されてしまうことが挙げられます。この国ではやはり「以前」の文脈が未だに残っておりそれが良く機能している反面、悪く機能している部分でもあるのですが、このように「自己実現」の必要性が生じてきている場合、「さぁ、皆さん『自己実現』しましょう!」というスローガンが アナウンスがされます。
すなわち「誰もが出来る方法がある」ということを担保として話が進められるのです.それは、ひとりひとりにフィットした方法 (Know-How)は全く無視され、ここでも「画一化」されてしまいます。それに付け加えて、この問題を「画一化」してしまうと見えてこないことがあります。
それは個人個人の「生き方」です。
社会のシステムや考え方が変化すると、人々の価値観や判断基準や生き方の選択も変化していく。
(中略)それは雇用システムだけの問題ではなく、生き方の根源に関わることなので、当然人々の考え方や価値観も変化を迫られることになる。だが、そういった変化に言葉や概念はうまく対応できていない。リスクと言う言葉を日本語に翻訳できないのは、会社への忠誠心や献身と引き替えに会社が庇護してもらうのが当たり前と言う社会では、人を惹き付ける何かに潜む危険・不安要因と言う概念が存在しなかったからだ。
村上 龍(著) 「人生における成功者の定義と条件」 P.006より
個人個人の「生き方」を十分に推敲している人にとってはこのような「自己実現」できる環境はものすごく有利になります。ただ、それに対する cost は、「自己責任」という大きな代償を払わなくてはいけません
では、その一方で「実現できない」人たちはどうなっていくのでしょうか。
[ 参考資料 ]
- 「希望格差社会 ―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」 : 山田 昌弘(著) / 筑摩書房 ISBN:4480863605
- 「人生における成功者の定義と条件」 : 村上 龍(著) / NHK出版 ISBN:4140808829
- 「希望の国のエクソダス」 : 村上 龍(著) / 文芸春秋 ISBN:4167190052