「寝ながら学べる構造主義」 (文芸春秋 ISBN:4166602519)の著者である内田 樹さんの blog を見つけました。(内田樹の研究室)何気なくみていると「2005年01月14日 自立とは何か」と興味深い内容のテキストがありました。
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これまでの人生を振り返っても、現在の Work の状況をみても「依存」と「自立」はセットで考えていることでしたし、一応の自分なりに出した答えは持っていました。前提条件として私の考える「自立」は、意識的にも無意識的にも「その人(事・物)が無くても生きていける事」ということでした。
そうするといささか乱暴な言い方ですが「本当に『自立』した人間はいない」と言うことに辿り着きます。これが、私がこれまでの経験値から出した答えでした。若い頃(20代前半)は特に同年輩や年上のヒトによく言われる言葉だと思います。この社会で言うところの「自立」とはお節介な説教を含めると、おそらく第三者が語るのは「経済的自立」のことと思われます。
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例えば「社会の厳しさ」と言います。では「社会」とは何でしょう。
答えは簡単です。「人の集まり」です。
何故かしらの説教したがる人の判断基準は自分(その人)の経験値もしくは思考回路の範疇」です。これは「私」の経験値ではありません。また、その人と全く同じような経験を私がするという絶対的な条件は何処にもにもありません。すなわち、これは多様なコンテクストを無視したある種の想像力のないお節介な押し付けと言う一面もありますし、実は「甘え」の一種とも言えます。「主体性の奴隷」という言葉も当てはまります。
個人的には「社会の『厳しさ』」より「社会の『楽しさ』(快楽性・充実性)」をアナウンスしたほうがモチベーションは上がるし合理的だと考えています。何故なら、人間は大いにして「何らかの benefit (利益・利得) 」が先にあることを認識して、そのモチベーションを高めていくことが極めて合理的であるからです。いきなり「苦労」という他人から押し付けらた「カベ」をつくり、その「代価」を払うことを must にしてしまうと、 モチベーションは下がるばかりだと考えるからです。
但し、その「代価」は必ず払わなくてはいけないというシンプルな原則受け入れ、それに基づいてその「目的地」に辿り付くこと。これは この世界においての原則ですので、物事は「タダ」では得ることは出来ません。この部分を理解すると自ずと合理的な方法は見つかります。
「苦労」を押し付たがるヒトは、単なる自分と同じ「苦労」をしていない他人に嫉妬しているだけなので、無視して良いです。
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では、内田さんのテキストを観てみましょう。
「自立とは何か」ということについて、私はこれまで何度もいろいろな機会に語ってきた。ひとことで言えば、それは「自分がどのような依存関係に含まれているかを俯瞰できる知性を持つ」ということである。
先に行きましょう。
奇妙に聞こえるかも知れないが、「自立」を基礎づけるのは、「自立」という個別的な事実を宣言することではなく、「依存」という包括的な関係を意識することなのである。
このテキストは私が先に上げた「本当に『自立』した人間はいない」ということから出発してみても分かりやすいかもしれません。下記は、自分が如何に「依存しているか」という視点を持って、自分を改めて確認すし明確に言語化できるということと言うプロセスです。
「自立していない」存在を考えればすぐにわかる。幼児は自立していないが、それは自分が「何に依存しているか」をことばにすることができないからだ。
(中略)
幼児的な大人の場合には、自分が「何に依存しているか」をことばにできる場合もある (「家族」とか「会社」とか「教祖さま」とか「イデオロギー」とか)。
しかし、「幼児的な大人」は、何が「自分に依存しているのか」をことばにしようとする習慣がない。自分がいることで何が「担保」されているのか、自分は他の人が引き受けないどのような「リスク」を取る用意があるのか、自分は余人を以ては代え難いどのような「よきこと」をこの世界にもたらしうるのか、といった問いを自分に向ける習慣がない。
深く見て行くとこの習慣は「戦略的 communication 」にもつながって行きます。因みにこの「戦略的 communication 」とは
最終的に自分の利益になるようにコミュニケーションを制御すること。
相手から自分の利益になる行為を引き出すためであれば、おべんちゃらを使ってもいいし、拙劣なカードに付き合うフリをしてもいい。目的となる利益を引き出して、終わってからぶったたいてもいい。「不安の正体!」金子 勝 他 (著)より
今までのこの国の文脈内では、「甘え」を伴う誤った認識の基にむしろ「敬遠されていた」と言っても過言ではないと思われます。すなわち、「自分の利益」を最優先することは嫌われる傾向にあります。いささか乱暴に言えば「存在していない」ということかもしれません。端的に申し上げれば、「オレがこれだけガンバッテいるんだからオマエもガンバレ」的、とでも言いましょうか...そこには「オレ」という「主体性」しかなく、「オマエ」という「他者性」は存在していません。これは単なる「甘え」です。
ここで「オマエ」に対する明確なインセンティブは、完全に無視されます。逆に「オレ」に対する incentive を明確に提示するとこの国では浮いてしまい嫌われる可能性の方が高いです。このコミュニケーションスキルの問題は閉鎖的で洗練された集団の特性とも言えるし、高度成長化時代のコンテクストからも説明出来ます。それは現代で様々な弊害を齎しています。
生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。
だから、自立している人は周囲の人々から繰り返し助言を求められ、繰り返し決定権を委ねられ繰り返しその支援を期待される。
「 < 私たち > は『自立している人』と < 呼ぶ > のである」の主語「私たち」に注目して以下のテキストを観てみましょう。
「私は自立している」といくら大声で宣言してみても無意味である。自立というのは自己評価ではなく、他者からの評価のことだからだ。部屋代を自分で払っても、自力でご飯をつくっても、パンツを自分で洗っても、助言を求められず、決定権を委ねられず、支援を期待されていない人は、その年齢や社会的立場にかかわらず、「こども」である。
ヘーゲルのテキストを追加します。
『 < 私> は関連する内容であると同時に、関連するそのものである』
ヘーゲルは < 自己意識 > なるものを規定し、人間はただ単に自己 (私) と客体 (他人・モノ・事象) を離れ離れにするだけでなく媒体として客体に自己を投影する事によって行為的に自己をより深く理解することが出来ると考えました。つまりわたしたちは、自己と客体を常に交換し投射しあって < 自己意識 > を確立しているということ。
判りやすく言えば自分で声高に「自分はこうだ」と叫んでも、それは「他者」を受け入れることや出会うことでしか自分の評価やこれからの可能性は開けないということです。
先に上げた「お節介な人」たちは、既にこちらの「主体性」(その人から観たら「他者性 (客体)」)を無視して自分の文脈だけで「客体」を判断すると言う傾向がのかもしれません。それでは正確にコミュニケーションはできません。そのためにはまず、「相手 (客体)が何を望んでいるのか、何を話しているのかを正確に『聞く』こと」から始めなくてはいけません。
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要するに偉そうに「自立しろ」とお節介なことを言ってくる人は相手にしないでも良いかと思われます。そんな状況になった際は、一言「自分のことは自分で決めるのでお構いなく。ですがもしあなたの助言どおりに実行した際、あなたが私に対しての < 責任 > は必ず担保していただけますか?」といささかアイロニカルに言えば良いかもしれません。
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余談ですが「オレは立派な会社員で経済的にも自立して偉い」という人をたまに見かけますが、実は「会社」という「モノ」に依存しているということをきちんと認識出来ているのでしょうか。
[ 参考資料 ]
- 内田樹の研究室 「2005年01月14日 自立とは何か」http://blog.tatsuru.com/archives/000676.php
- 「寝ながら学べる構造主義」 : 内田 樹(著) / 文芸春秋 ISBN:4166602519
- 「不安の正体!」 : 金子 勝 (著), 藤原 帰一 (著), 宮台 真司 (著), A・デウィット(著) / 筑摩書房 ISBN:4480863583
- 「海辺のカフカ (下)」 : 村上 春樹 著 / 新潮社 ISBN: 4103534141