今回は前回に引き続いて「希望格差社会」の論点から
この本の内容に取り組もうと考えていて
準備していたのですが、
その間、この国の外交、政治、社会を見ていて
もうすこしこの命題をより深く掘り下げたほうが better だと感じ
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「neet -フリーターでもなく失業者でもなく」
玄田有史、曲沼美恵著
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「マル劇トークオンデマンド・ビデオニュースドットコム」
http://www.videonews.com/
第206回 [2005年3月11日]
ニートが投げかける日本の構造問題の深層
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の内容を軸にして前々回の column
「『自立とは何か』を考える」
の続きとして「自立」の「弊害」について現在マスコミで
理解不能な<モンスター>として話題にのぼる
< neet >と呼ばれる人々の<実像>を通して
考えていきたいと思います.
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この本の中でも番組の中でも言われていたことですが、
neet について、発祥国のイギリスでさえ(詳しくは後述)
『よく判っていないことの方がとても多い』
ということをまず認識してください.
また、
『理解しにくい若者の問題を、意識の低下として
片付けることができれば、大人の多くは安心なのだろう。
理解できたとして安心して
職業意識を啓発する作業に没頭できる。
しかし、第三者が人の意識や意欲を変えようというのは、
多くの場合、傲慢以外何ものでもない。
本人すら分からない心の奥底の意識や意欲について、
他人が決めつける権利は、何処にもないからだ。
<中略>
ニートに限らず、どんな状況でも
他人に意識について語るとき、
人はどこまでも謙虚でなければならない。
<中略>
意識の変化という現実がそこにあったとしても、
責めるべきは個人ではない。変化を生み出してきた、
社会もしくは経済システムそのものなのだ。』
(同著 P244〜245)
ということを念頭に置いてください.
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昨今で話題になっている< neet >という言葉ですが、
もともとイギリスの現政権(ブレア政権)になった時に
生まれました.
正確には
「 Not
Education, Employment, or Training 」
の頭文字をとった言葉で、すなわち
「就学、就業、職業訓練を
(何らかの理由)で受けることの出来ない人」
という概念から生まれました.
では、その言葉がどのように社会に認識されてきたかというと、
前述イギリス、ブレア政権下( 1997〜)で
「社会的排除防止局( Socilal
Exclusion Unit )」
という部局がデータを基く綿密な調査とともに、
若者から直接話を聞き、
1999年に作成した調査報告書によるものです.
(同著 P27)
この中では
「ドラッグ等におぼれる16〜18歳の若者を指す
『社会的排除』された人々」
という categorise にスポットを当てています.
ポイントは<社会的排除>という言葉です.
すなわち、その言葉どおりにその人たちを<社会>からの排除を
防止するための調査です.
●
ではこの国ではどうでしょう.
2003年、厚生労働省はUFJ総合研究所に委託して調査した
「若年者のキャリア支援に係る調査研究」
※同年の2月〜3月にかけて、18歳以上35歳未満
(経済学上<若者>と呼ばれる世代)で、
現在無職の人々に対しその生活、意識、経歴を
web で尋ねたものによると、約1200人の無職独身者のうち
全体の
「失業者」:45% 「< neet >」:14%
という構成比になっています.
(同著 P40 表2. 35歳未満独身無業者)
この場合、後々正確な定義づけを行うと
求職活動中もしくは独立・開業準備をしている人のことを
<失業者>と呼び、進学準備も求職活動もしておらず、
怪我や病気でもなく、「特に何もしていない」と答えた人を
< neet >と呼びました.
因みにイギリスではこの<失業者>も< neet >に含まれています.
また、失業者と neet
の最終学歴の関係はどうでしょう.
neet では最終学歴が中学卒もしくは高校中退である
という場合が極めて多く(中卒 7.2%、高中退 13.8%)、
失業者では、
「中卒」: 1.3% 「高中退」: 4.0%
で統計上では、 ここ学歴に相当する人々が
neet になりやすいと言えます.
(同著 P32 図2. ニートと失業者の最終学歴)
しかし一方で失業者の割合で一番多いのは
実は大卒者で、3人に1人の割合になっています.
neet では、上記のような割合にはなっていますが、
大卒者でも、5人に1人の割合です.
すなわち、
「大学を出たら、neet に絶対ならない」
というのは必ずしもいえないというのも現実です.
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よく、「 neet は甘えだ」という意見を聞きます.
この意見は<フリーター>論議や
<ひきこもり>論議と同列に言われ、例えば、
「それは<社会>が悪い」
「それは<教育>が悪い」
「最近の若者は<甘えている>」
という意見をよく耳にします.
また、「<徴兵制>を復活すればよい」
ということを声高に言う政治家も出てきています.
まず大切なことは、この意見を発する<主体>が
「自分がなる可能性は全く無い」
という固定観念から生まれていることが多いと
認識することです.
つまり、
多様化した<近代成熟モデル>の現代において
その立場と<十分に入れ替え可能>
には無いわけです.
また、背景には<表現>と<表出>の違いを判らずに
自分では<表現>と勘違いしているが、
ただ単なる<表出>、言葉を変えると
「言いたいことだけを言ってすっきりすること」
に過ぎないということです.
実は重要なのはその逆で
『誰でも neet やひきこもり、フリーターになる
可能性は十分にある』
という認識です.
簡単に言えば、誰もが弁証法で言う<形而上的思考>で、
「(自分の見る)この状態(世界)はずっと続く」
という錯覚がありますが、それには何の保証もありませんし、
誰も明日のことはわかりません.
では、 neet の人たちがどのように考えているのか、
またどのような状況に置かれているのかを
より深く考察していきます.
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下の「図. 若者の鳥瞰図」を参考にしてください.
内閣府の現在の調査では
@非活動型
… 仕事をする意欲はあるが職探しまでいたっていない
A非希望型 … 仕事をする意欲はない
に分けられているようです.
具体的には、
2004年には52万人(35歳未満)の人が< neet >である
というデータも報告されています.
近代社会においてヒトは人の集まりである<社会>に
何かしらの commitment を求めます.
それは、大半が<労働>において commitment しようと試みます.
すなわち「社会の中で役立っている」と言う実感を得る
< identity >の役割です.
よって、この状況下にいる人々は
「<社会>と繋がりが持てない=自分の<帰属>すべき場所がない」
と感じています.
また巷では、『< neet >は<ひきこもり>に含まれる』
という認識がありますが、これも逆で
『< ひきこもり >は< neet >に含まれる』
という認識の方が正しいです.
図を見ても判るとおり、相対的に<ひきこもり>の数は
1990年代からあまり変わっていません.
因みに<ひきこもり>=<社会的ひきこもり>とは
厚生労働省の定義では
『自宅に引きこもって学校や会社に行かず、
家族以外と親密な対人関係が無い状態が
6ヶ月以上続いている人』
のことを言います.
neet の人たちに対する世間一般の意見で
最も間違って認識されているのが
やはり「働きたくない」という上記のような
間違った観念からの「甘え」が上げられますが、
むしろ、
『働きたくても<働けない人>』
⇒『意欲がありすぎて考えすぎている人』
という認識が正しいです.
また、「一度就労したがダメだった」という人と、
「一度も就労したことが無い」という人の割合は
全体の半々の割合を占めますし、
「経済的に裕福である」という家庭が多いのではなく
これも「経済的に裕福でない」という家庭との割合が
全体の半々の割合を占めているそうです.
●
では、上記の
『働きたくても<働けない人>』
⇒『意欲がありすぎて考えすぎている人』
というアンケート結果からより具体的にみていきます.
(同著 P38 表3.4)
おそらく最も根本的な疑問は
『なぜ働こうとしないのか』
ということではないでしょうか.
多くの割合を占める解答は、一般的イメージで語られる
「仕事につく必要がないから」:6.2%
「他にやりたいことがあるから」:10.8%
と思われますが、実際は
「人付き合いなど会社生活とうまくやっていける自信がないから」
:43.1%
という
<仕事のなかで人間関係を円滑に進めていく自信が欠けている>
ということなのです.
よく「『 communication
skill 』が大切だ」
と announce されていますが、
実際にはその< communication
skill >の
正確な意味を理解せずに、言い換えれば
<理解しているもの>と錯覚しそれは自明のモノとして
一方的に announce されている最悪な状況です.
前回の column でも書きましたが、
「個性を重視しましょう」
「自己実現しましょう」
という教育方針的 announcement が世間で叫ばれ
「働かない人は罪である」
という<道徳>と叫ばれています.
実際は、それは「高度成長モデル」即ち、
「共通の目標の中で誰もが一緒」という
画一化された scheme の元で語られています.
<周りの流れ>は急激に変わっているのに、
<入れ物= vehicle >はそのまま止まっていて、
その中の限られた context でしか語られていない
というイメージでしょうか.
現在のような近代化を終えた「成熟社会モデル」の中では
その announce では十分な機能を果たしません.
なぜなら「共通の目標( ex.家庭に TV がほしい... etc 」は
その目標自体が実現されたため存在せず、その自明であった
「誰もが一緒」と考えられていたものは、
それが<私>にとって適応されるかどうかの
疑問の余地が生れます.
すなわちこのようは< announce >は
「fit する人もいれば、fit しない人もいる」
という前提条件が無視されてしまいます.
つまり、この場合の一番の必要条件である
「どのようにすれば<私>は『自己実現』できるのか」
「どのようにすれば<私>は具体的な『目標』を持てるのか」
「どのようにすれば<私>は『個性』はもてるのか」
と言うモデル、<私>にとって<どのようにすれば>という
個別の context は具体的に語られず、
そういう状況下で、非自明的、一方的に announce されると、
それは<私>にとって過度の pressure になり、
押し付けでしか在りません.
>> #002 <<
へつづく.
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尚、抜粋した文章、図の著作権は言うまでもなく
原本著作者にあります.
また、本文中の著作者のテキストの改行は
筆者が行いました.
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白橋 哲 拝
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