「この曲をつくった
『そもそものきっかけ』は何ですか?」
「あなたがこの仕事を選んだ
『そもそものきっかけ』は何ですか?」
「ふたりが知り合った
『そもそものきっかけ』は何ですか?」
「あなたがお金持ちになった
『そもそものきっかけ』は何ですか?」
上記の言葉は,よく雑誌や日常会話で使われたり、
聴かれたりする言葉です.
普通に聴いたり見たりとしても
何も違和感はないと思います.
ただ、それを質問された際、
僕にとってはとても答えにくい質問でした.
何だか不思議な違和感を覚えています.
例えば、何らかの作品に対して
「これは何を伝えたいのですか?」
という質問に対しての答えは、
本当にシンプルかつ洗練された
答えを持っている人で無い限り
「一言」で表せないものだと考えています.
作品を作ると言う行為や、人間の様々な行為・行動・思想は
「何か複雑なファクター」がかみ合わさって
それを具現化する作業でもあるからです.
そして、その「何を伝えたいのか」ということを
掴み取っていく作業でもあります.
それは「そもそものきっかけ」という言葉で
片付けるのはいかがなものかと考えています.
要するに、答えは”ひとつ”では無いということです.
●
まず、村上龍氏のエッセイ集
「全ての男は消耗品である
vol.6」の
「きかっけ」について書かれたエッセイを抜粋します.
「自分にとって個人的に興味あることを示し、
その分野で努力を続けて成功を目指すことは
この国ではあまり歓迎されない。」
「・・・『きかっけ』さえあれば誰だって成功できるし、
誰だって素敵な人と付き合うことが
出来るというアナウンスは
『突出した個人などいないのだ』
という安心感を与えてくれる・・・」
「…特別な才能や努力がなくても、
基本的に誰でも手に入るものなので、
それはその辺に転がっていて、
成功しなかった人は
それを手に入れる気がなかっただけ・・・」
この文章を読んで
(村上氏の様々な著作からもたらされる文章も含め)
これはとても僕には fit した考え方でありました.
●
哲学・宗教的人間レベルにおいて、
「人間はすべて平等である」という考え方は
正しいと考えています.
(※これを説明したり、議論することは
スパイラルを生むので止めますが)
しかし、経済的・思考的レベルにおいては
『格差』は生まれると考えています.
●
ココ数週間読んでいる本の中に
小熊英二著
「単一民族神話の起源―
〈日本人〉の自画像の系譜」
があります.
これは明治初期から現代にかけてこの国においての
「日本人は『単一民族か複数民族か』
と言う「神話」を多くの資料をフラットに
分析されている分厚い本です.
そして、その中で小熊氏は
「・・・まず個人があり、
それに集まって集団が出来ているのではない。
まず集団がありそこから疎外現象として
〈個人〉が析出させれるのである。」
と言う一文を書かれています.
●
最近のコラムの原稿でよく書いている
「集団主義」という一種のカタルシスにも
結局は収束しますが、
まずある物事
(それは仕事や行動・得たいと思う物質)に対して
何もせずに成し得るということは皆無です.
簡単に言えば「充実感」を得ること.
例えばそれに対して
何らかの代償を払うことかもしれませんし、
経験を重ねると言うことかもしれません.
また、何らかの失敗をした時の検証なのかもしれません。
それは「自分を疑う」と言うことです.
●
この現代社会において「自分に fit したやり方」を
追求しなくてもある程度の収入は得られますし、
まずは生きていけます.
しかし、その中からもっと追及した人たちが得た
「成功」や「実績」尚且つ「実践途中の人」
に対しての「批判」や「嫉妬」は凄いものです.
何故か?
やはり上記の例えで挙げたもの(代償・経験)に対しての
コストがかかりすぎ、実践する上でとても
面倒くさいものだからだと考えています.
やはり、僕だって楽して得たいですし…
その中で重要なことは
「嫉妬」や「批判する」ということはつまり
「本当は自分もそうしたいのに・・・」
と言う願望が含まれているということです.
誰だって今より良い生活をしたいし、
誰だって自分のしたいことをしたい.
●
確か最近よく「個人」と言う言葉が
この共同体の中に蔓延っているという印象がありますが、
上記の小熊氏の定義に基づくと
今の社会はものすごい矛盾点ばかりが目立って見えます.
『自分の頭で考えて、自分なりに分析・検証して、
尚且つそれを実践する。』
ということ莫大なコストをかけて
多くのリスクを負い実践するしか、
多分これからは
それだけしか「万能の solution 」には成り得ません.
また、そのようなことを既に実践している人たちに対して、
本当に自分もそのようになりたいのであれば
まずは「尊敬する」または「畏敬の念を持つ」ということが
正しいのではないでしょうか?
もしくは検証してみるということ.
まぁ、「責任を持つ」と言う観点から行けば
そもそもそのようなリスクやコストをかけるということは
当たり前のことなのです.
そして、このような人生をサバイバルするには
努力や訓練が必要であるというアナウンスが無く、
「共同体」というものをひとくくりにすれば
安易な「きっかけ」という共通の文脈さえあれば、
マスコミや共同体の人々自体は
様々なリスクや面倒くさいコストを避けて、
誰でも得れるのさという意味があると考えます.
ただ、逆に「商品を売る」という
マーケティングポイントからの戦略では
この言葉は確実な solution に成り得ます.
それは、上記のようなポイントを多くの人が認識しておらず、
カタルシスの一面を差し引いて、
その要因に安易にひかれる一面もあるからです.
その一面では非常に有効なツールなのかもしれませんが、
「そもそものきっかけ」
という言葉は、
僕は非常に不安定な言葉であると考えています.
そして、一番重要なのは
「何故その人はその行動に出たか?」
という根本の問いかけと、
その人にとっての motivation の優先順位だと考えています.
あなたは本当に「充実感」を得ていますか?
白橋 哲 拝
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