「キミの作品は全く何がいいたいのかわからない」
「キミは何がしたいのかわからない」
といわれることが多いです.
捻くれを除いて自己弁護の余地としても
それは確かに一面を帰しているのですが、
果たしていつもがシンプルなものだけでよいのだろうか?
という疑問があります.
例えば、こういう側面があります。
「わかりやすいもの」の定義の中には、
「自分で考えなくてもそこに答えがある」
という十分条件も含まれるということです.
日々の生活においてただでさえ忙しいのに、
その中で余計なことを「考えたくない」ことは
重々に理解できます.
それにその作業がとても面倒臭いこともわかります.
勘違いして欲しくないのですが、
「より簡単にする作業」を 否定しているわけではないです.
むしろそれは的確なコミュニケーションを
図る上での十分条件です.
しかしある種「これくらいはわかりますよね」みたいなことは
大きな甘えであると思うし責任もない、
かなり一蓮托生・日本人集団的依存だと思います.
結局そういった「相手は無知な存在」をおざなりにすると、
ミスコミュニケーションが生まれるのだと思います.
ただ、いつもそのように気を張っていたら疲れます.
ただ、最近の民放のワイドショウ的ニュースの情報のように
「悪と善」とはっきりしたものを判りやすいといって、
その理由や原因を追究しないままに
そのまま流すのはいかがなものかと思います.
(これはまた別の話なので別の機会に必ず.)
発信手はよりシンプルにすることは望ましいことですし、
それが発信する側の仕事だと思います.
逆に自分の心の中や経験値から言って
本当に言いたいことは、言葉に表せないものと思います.
むしろそういったメタファーやカオスを
簡単に記号化することは
とても困難な作業で無理だと思います.
けれどその中をクリアにしていくということは
その発信手の成熟や人間性が大きく関わってきて
そぎ落とされる作業がより洗練につながっていくのでしょうか.
それを怠り「判りやすさ」にかまけるのは
いかがなものかと思います.
例えば文章において、
言葉と言葉の行間はそういった抽出作業で
より洗練されて生まれてくるものだと思います.
音楽でもソウ思います。
要は「肉をそぎ落とす作業」ですね.
上記の甘えや依存においての「判りやすさ」を求めるのは、
あまり興味が無いです.
ひとつの命題を提示します。
「心に残る作品は洗練されているが
そこに表せないカオスがある」
ということです.
この話は個人的見解や個人的趣向が作用するので、
完全な命題ではありません.
個人的にはその人の抱えているカオスと、
それをその人が
どのように克服や付き合ってくかという努力に
大きな存在感があると思います.
しかし、そのコトが伝わらないということは、
僕のスキル不足や問題点がかなりあるということが
大きいという事実でもあります.
先ほどの命題が
これからの僕にとってのクリエイティブの
指針となるのです.
フゥ…
白橋 哲 拝
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